今日の清心

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2021年07年03日 | 日記

清心と言えば、「赤い屋根」。創立当初から変わりません。
太田川放水路の東岸から見えるこの赤い屋根はとても印象的です。
遠く離れていても己斐方面に「赤い屋根」を見つけることができれば、清心の場所がわかります。

さて、今日は清心周辺の歴史のお話です。
清心が開校したのは1950年。
今日の話題は70年前にもつながってきますが、何と約400年前までさかのぼります!

400年前と言えば、江戸時代。当時の様子を想像する助けとなるものがこちら

清心に向かう通学路に「キリシタン殉教之碑」があります。

なぜこのような碑が建っているのかというと、キリスト教禁教下にキリスト教徒の処刑が周辺の河原で行われていたからです。広島のキリスト教の歴史に関わる場所の近くに清心があるのも何かの縁を感じます。

キリシタン殉教之碑のそばにある記録の碑によると、1616年から1654年にかけて広島では殉教者が出ているようです。

一昨日の7月1日は、カトリック教会において、1603年から1639年にかけて各地で殉教した日本の殉教者188名の記念日になっています。記念日の名は福者ペトロ岐部司祭と一八七殉教者」です。この188人の殉教者の中に、1624年2月と3月に広島で殉教したフランシスコ遠山甚太郎マチアス庄原市左衛門ヨアキム九郎右衛門が入っています。

おまけの知識として、天正遣欧少年使節の一員としてローマに派遣され、のちに司祭となった中浦ジュリアン(1633年殉教)も福者ペトロ岐部司祭と一八七殉教者」の中の1人です。

さて、このあたりが刑場であったことがなぜわかったかというと、そこにはキリシタン史を地道に調査した一人の外国人宣教師の存在があります。その宣教師とは、ドイツ人イエズス会士のチースリク神父様です。

チースリク神父様はノートルダム清心中学校が創立される際、学校案内や生徒募集のために奔走してくださった方でもあります。また、清心が創立される5年前、広島に原爆が投下された時にも仲間の宣教師達といち早く市民の救援活動を行われており、清心や広島との関わりが深い方です。被爆時のことについては現在、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館において企画展が開催されていますので、ぜひご覧ください。(校長日誌 2021年2月27日

清心が日本のキリスト教の歴史の流れの中にあるのを思い起こさせてくれる「キリシタン殉教之碑」
掘り起こしていくとたくさんの発見がありそうな清心ヒストリーの一つです。

 

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